ひとつの答えとして

 

こっそり考え続けていたこと

 

大枠として

「人としてどう在りたいか」

 

もう少し細分化して

「愛を目の前にした時どう在りたいか」

 

 

答えが出したくても、きっかけがなければ答えは出せないものだ。経験や思考がなければ納得のいかない答えになってしまうだろうし、きっと確信がもてない。

 

 

今日は、そんな答えに近づいた大切な日。

 

 

全細胞が感情に乗っ取られました。

自分の感受性の豊かさと脆さを甘んじていた。

ものすごい勢いで確信に近づいていく、私の思考。背中を押されるというよりは、全部まるごと抱き抱えられた感じ。

感受性どーのこーのっていうか、私も悩んでたんだと思う。いろんなことを、知らず知らずのうちに。涙、鼻水、嗚咽。人前でもおかまいなし。いいじゃないの、人間なんだから、泣きたくなった時くらい泣かせて。タリーズのミルキーフラットホワイトの中に零した涙。涙の味と、コンデンスミルクの味。混ざっていく。なんとも価値のあるものでした。誰も私のことを見ないでくれ。

 

 

私は他人に共感をそこまで求めない。

だって多分私のこの高ぶりはあんまり他人に伝わらないと思うし、そもそも共感の共有って押し付けるものじゃないと思うの。だから好きな本とか好きな音楽とか、人に貸せない。(有難いことに、周りの人は私にめちゃくちゃ貸してくれる。それは凄く嬉しいの、世界が広がる、ありがとう。)

 

これはわたしのきもち、それはあなたのきもち。こういう発見があったの、こう感じたの。へえ。素敵だね。これでいい。

 

むしろ、自分の感じたことを伝えたいと思う人がいるということ、聞いてくれる人がいること、それが1番の幸福だと思います。

 

 

 

非常に前置き長くなりましたが、

辻仁成さんの「サヨナライツカ」を読みました。

 

 

 

私と本の出会いはいつも適当だから、本屋に入って本の前に立ち尽くしたまま

 

 

「恋愛小説 泣ける」

「おすすめ 感動小説」

 

とか、真顔でネットサーフィンするのが定例。

 

 

そんで、良さげなのがあればその本を見つけに行き、本の裏表紙を見る。

惹かれたら、読む。

何かちげえなと思ったら、棚に戻す。

 

 

今日はなんとなーく、優しい文体に触れたい気持ち&いつもみたいに詩を求めてる私じゃなかったので、ひとまず、なんとなく江國香織コーナーに足を運ぶ。

 

お目当ての「いつか記憶からこぼれ落ちるとしても」が、ない。

 

…ないのかよ。

 

 

気を取り直す。

もう一度、ネットサーフィン。

 

 

どれもこれもあまり心にヒットしなくて、下に下にとスクロール。

私の指、めちゃくちゃ早く動くな。スクロール大会あったら優勝できるかもしれない。

君の膵臓をたべたいの気分でもないしな、銀色夏生の新刊の気分でもないしな、あれ、今日不発かな、やっと読書する気になったのにな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと愛したことを思い出すヒトにわかれる。」

 

 

「私はきっと愛したことを思い出す。」

 

 

 

 

 

これじゃん。これじゃん…!

今の私の脳内議題に近いもの。

 

 

 

 

よし決めた、はい、辻仁成コーナーの前にゆく。あ、サヨナライツカあった、最高。表紙真っ赤なんだ、へー。はい、買う。レジ混んでんな。買えた。はい、読もう。うわータリーズ激混み。飲み物買えた。はい、読む。

 

 

 

 

あらすじや本の内容についてこと細かに書くつもりはない。

 

 

 

 

 

私は、どう在りたい?どう生きていたい?と問われたら

 

 

 

「誰かを想える人でいたい」

 

 

というのが、真っ先に本音だった。それはこれまでも、そして今も、きっとこれからも変わらない。って心のどこかではわかってたんだけど

 

 

でも大声で言えなかった。いまいち確信も持てなかった。

というのも人を想った結果、自分が傷ついてることの方が多かったから。臆病になっていたんだと思う。

だって愛された方がいいじゃない。幸せになりたいもん。甘やかされたいし絆されたいし、上機嫌になりたいしちょっとだけ浮つきたい。だって愛されてないと愛の実感が湧かないじゃない。

 

 

 

 

 

物語の主軸になる一遍の詩がある。

 

 

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いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない

 

孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい

 

愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある

 

どんなに愛されても幸福を信じてはならない

 

どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない

 

愛なんか季節のようなもの

 

ただ巡って人生を彩り飽きさせないだけのもの

 

愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ

 

 

サヨナライツカ

 

 

永遠の幸福なんてないように

 

永遠の不幸もない

 

いつかさよならがやってきて、いつかこんにちはがやってくる

 

人間は死ぬ時、愛されたことを思い出すヒトと

 

愛したことを思い出すヒトとにわかれる

 

 

私はきっと 愛したことを思い出す

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

「ええ、もちろん愛されたことも思い出すでしょう。それは嬉しい記憶として。でも愛した、ということ。自分が誰かを真剣に愛し抜いたということは、生き物として生まれてもっとも尊いことだと考えるのです。そういう一生を送りたいんです。」

 

 

 

 

 

あぁ、こういうことか。

 

 

私の本心に近いのは、これ、なんだな。

 

 

 

 

 

とにもかくにも、あぁ、語彙がないから。

昔ママが冬のソナタを見たあとにね、「ピーマン切ってても話を思い出して涙出てくる」って言ってたんだけど、それと同じ現象起きてる。

 

 

 

誰かを愛すること。

たとえ数日でも数ヶ月でも数年でも、

目の前の人間を本気で愛すること。

たとえその人が永遠の心の枷になったとしても、もう戻れない過去を思い出しては苦しむとしても、

愛した事実は何一つ消えないということ。

過ごした時間に何一つ嘘はないということ。

永遠に心の中で生き続けるということ。

 

そして、その人を愛せたことを心から誇りに思えること。その事実だけで、余生を生きていくエネルギーが生まれるということ。

 

 

愛している、という想いは真実であること。

 

 

 

 

 

私はまだ子供だから、これからも沢山いろんなことを経験してしていくんだと思う。

 

そんな中でも…

 

自分はどう在りたいか

 

見失わないように、揺れ惑っても最後はここにかえってこれるように

 

真っ直ぐ生きていきたいなと誓いたいです。

 

 

 

 

沓子が豊に宛てた手紙の内容が素晴らしいんだ。

これを印刷して部屋に貼り付けておきたい。

ここにはあえて記載しないでおこうね。

 

 

 

結局何が言いたいのかわかんないけど、本日のひとつの答えとして

 

 

 

私もきっと、死ぬ前には

 

 

愛した人のことを思い出します。